★コピーライターが思わず ! となったコピー。 -2ページ目

人類を救うのは宇宙戦艦ヤマトでなく贈り物

年賀状は、贈り物だとおもう。
 
2,3年前から日本郵便が広告で
使っているメッセージ。
その年のCMや印刷広告によって、
いろいろな使われ方がされている
ようで、最近見たのは、
 
また、人を人を
想う季節が、やってきた。
というコピーの締めに
この一節が登場するパターン(新聞広告)。
 ・
★コピーライターが思わず ! となったコピー。-nenga01

CMギャラリーはコチラ
 
年賀状とは贈り物であるとな。
はじめて見た時、しゃれたことを
言うもんだなと思った。
(そうは言っても、毎年、年賀状の
販売ノルマを課せられ、自腹を切って
(金券ショップで換金するなど)
奉公している郵便局の中の人たちに
とっては年賀状は厄介もの?)
 
ただ半ば義務と刷り込まれてきた
新年のあいさつを贈り物と受け
止めるには、何かそこにスペシャルな
価値があるのではと感じるなり、
想像しないことには、
ピンとこないだろうなと思う。
誕生日のプレゼントやお土産とは
気持ちの入れようも違うしね。
 
それで、贈り物である年賀状に、
込められた贈る人の思いとは
いかがなものか。
そこから考えてみる。そんな面倒な、
まぁ、そう言わずに想像力を鍛えると思って。
いろいろありましょうが、
広告ではこんな風に言っている。
 
 
★今回のビックリマークなコピー。
 
 
1月1日の、
あなたの心の中にいたいから。
 
 
やはり日本郵便の広告で、
年賀状は12月25日までに出してね、
そしたら元日に届きますからという
行動をうながすのが目的のメッセージ。
 
伝えたいことを年賀状を出す人の
気持ちを借りて言わせる表現。
悪い言い方をすると、広告にユーザーの
サクラを登場させて語ってもらう方法。
ともあれ、年賀状を出す理由に気づかせる、
動機づけってやつですな。
 
なるほどね。1月1日に私のことを
思い出してくれればいいのか。
まるで広告でいうリマインド目的
みたいだけど、こういうメッセージは
贈られる人は、どんな気持ちで受け
止めるのかな。
 
そりゃうれしいに決まっているでしょ。
それは分かる。でも、なぜうれしいの?
うれしさの正体って?そんなことを考えて
いたら、昔のコピーを思い出した。
 
好きだから、あげる。
 
好きだから。プレゼントの理由は、
この一言で充分です。この一言が
すべてです。好きだからプレゼント
するのです。人と人の幸せな出来事
のはじまりには、いつも「好き」という
感情の動きがあるように思うのです

 
というボディコピーが続くこのコピーは、
丸井のキャンペーンで使われたものである。
 
単純明快。意外であれ、やっぱりであれ、
私のことを気にかけてくれている、
私のことが好きなんだという
メッセージはたしかに贈り物になるね。
 
いやいや、年賀状で好きまでは
思わないでしょ。そう思う?
でも、小学校のとき、隣のクラスの
女子から年賀状をもらったときは、
もしかして好かれてる?と
舞いあがったものである。
バカにはできませんぞ。
 
もっとも広告のメッセージだから、
好きなら、プレゼントのひとつ
でもしなさいよといわれている気が
しないでもない。
まぁ好きとは思わないでも
これくらいのことは思うんじゃない?
 
プレゼントがうれしいのは、
会っていない時に自分を
意識してくれたことが嬉しいのだ。
 
ドラマで泣いて、人生充実するのか、おまえ
という、きつかわゆきおさんによる言葉の
贈り物の詰め合わせみたいな本に書かれてあった。
 
ああ、これはぴったり。プレゼントを

年賀状に置き換えても、腑に落ちる。
プレゼントそのものもうれしいだろうが、
贈る人の気持ちに感動するのだ。
 

一緒にいないときに
私のことを思ってくれた、思い出して
くれたというのがうれしい。
うれしさの正体は、やっぱりこれが
一番でしょ。
 
そう考えると年賀状も贈りものになる。
ふだんから顔を合わせているわけではない、
いつも近くにいるわけでもない、特別親しい
というわけでもない…それなのに私のことを
気にかけてくれた、そのよろこびは
たぶん贈った人が想像する以上に大きいはず。
実際、CMでは同じようなことを言っているし。


★コピーライターが思わず ! となったコピー。-nenga02

 
年賀状のコピーの「1月1日の、あなたの
心の中にいたいから。」という贈る人の思惑は、
「私はあなたのことを忘れていません、ちゃんと
思っていますよ」という贈り物になって届く。
 
贈られる人は「私のことを憶えて
くれた」や「私には私を気にかけてくれる
人がいる」と受け止める。反転して
言えば、「1月1日、わざわざ私の心を
訪ねてきてくれてありがとう」となる。
 
そういうふうに想像できないと、年賀状が
贈り物といわれてもその価値が分からない
ままで、いい表現だねで終わってしまう。
 
それはそれで誰も困らないだろうが、
たぶん、このコピーを読んで、本気で
年賀状を贈り物と思っている人なんて
少なそうだから、日本郵便の思惑は
どうなのかは別にして考えてみたしだい。
 
贈られる人など何かを
受け取る側についてどれだけ
想像を働かすことができるか。
これは広告のメッセージだけでなく、
商品とかサービスのしくみを考える
さいにとても大切だと思うし、
よくそう言われている。
 
そんな心構えがないと、いくら
おもてなしとかきめ細やかな対応
といっても、上っ面の、形骸化したものに
なってしまうのではと思う。
事実、そんなサービスとか接客
マニュアルとか多いと思いません?
 
贈る相手のことを思う想像力、贈って
くれた相手に対する想像力が行き交う
贈る、贈られるの関係は、つらい世の中を
生きるために必要なことだと思う。
 
人間関係や社会の中で、そうした贈る、
贈られることを意識した関係が当たり前
のようにあると、少しは世の中の苦痛が
減るのではないだろうか。
 
いま、つながりとか共感のプラットフォーム
として、いろいろと期待されているソーシャル
なんとかも、しくみやビジネスモデルばかりで
語られることが多いが、参加者や運営者の根元に
贈る、贈られる関係の考えがないとせっかくの
ソーシャルも荒涼とした世界になるのではとも
思っているんですが。
 
というようなことを内田樹さんの著書や
ブログを読んで考えてみたのでした。

 
贈る、贈られるのルール、贈られたら
お礼をするという考えは、昔から人類社会の
基盤としてあったのだとか。
その贈与と反対給付義務(お返し)について、
あの内田さんのブログから分かりやすい部分を
抜粋して紹介する。
(興味をもったらぜひ全文読んでくださいな)
 
私たちは自分が欲するものを
他人にまず贈ることによってしか
手に入れることができない。
それが人間が人間的であるための
ルールです。
今に始まったことではありません。
人類の黎明期に、人類の始祖が
「人間性」を基礎づけたそのときに
決められたルールです。
親族の形成も、言語による
コミュニケーションも、
経済活動も、すべてこのルールに
準拠して制度化されています。
 
祝福の言葉を得たいと望むなら、まず
僕の方から「あなたにはいつまでも
幸福でいてもらいたい」という
言葉を贈らなければならない。
まず贈与するところからすべては始まる
  
「受け取るだけで、次にパスを出さ
ない人」は贈与と返礼のサイクルから
しだいに押し出されて、周縁の
「パスの通らないエリア」に位置
づけられることになります。
 
どれほどわずかであっても、手持ちの
資源を惜しみなく隣人に贈る人は
このサイクルにおける
「ホット・ポイント」になります。
贈与と返礼のサイクルはこの
「ホット・ポイント」に資源が
集中するように制度設計されています。
 
僕たちの時代がしだいに
貧しくなっているのは、
システムの不調や資源の
枯渇ゆえではなく、
僕たちひとりひとりが
「よきパッサー」である
努力を怠ってきたからでは
ないかと僕は考えています。
 ・
以上「自立と予祝について」
 ・
少々的外れかもしれないが、これを読むと
「わらしべ長者」とか「情けは人のためならず」とか
「情報は情報をたくさん出す人に集まる」といった話が、
実は贈与と返礼のサイクルの上で成り立っている
と思ってしまうんだな。
ギブ&テイクではなく、ギブ&ギブ&ギブの精神。
 
内田さんは著書「街場のメディア論」でも
贈与とお返し(反対給付義務)について、ブログと

同じことを語っている。
 
人間であろうと望むなら、贈与をしなくて
はいけない。贈与を受けたら返礼しなければ
いけない。すべての人間的制度の起源にあるのは
この人類学的命令です。
(第七講 贈与経済と読書)
 
人間社会が、贈与と反対給付義務に
基づいて構築されているという仮説に

基づいて人類型モデルが体系化されて、

その仮説の妥当性が
今もって反証されていないとか。
 
とレヴィ=ストロースやマルセル・モースといった
文化人類学者たちの考えを用いながら、内田さんは
メディアのや出版の不調について、またこれからの

わけのわからない未来で生き延びていくことについて
述べている。僕にはとても新鮮に響いた。
(といっても、半分くらいしか理解していませんが)
 
贈与と反対給付義務。それは心理学的でいう
返報性の法則」が働いているから、
マーケティングでよく活用される原理
といったビジネス書のような視点だけで
考えてもこんなふうに深く考えさせられる
ことはない。
 
あなたなしでは生きてゆくことができません。
あなたの末永い健康と幸福を私は切に願います」という
予祝の言葉に対しても、それと同文の言葉を返すことが
人類学的には義務づけられています。
と内田さんはお書きになっているが、そう考えると
やはり年賀状も贈りものであると、いや
そう思わなくてはいけないということになるね。
 
年賀状は贈り物なんて、素敵な表現ではあるが、
ちょっと大げさと思っていた。でも、これで納得。
 
しあわせになりたいなら、まず贈るってことでOK?


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踊るサルに、踊らされていますが何か

そうすべきでないと分かっていても、
僕らは目の前の結果に一喜一憂し、
右往左往してしまう。

 

仕方ない、
だって結果がすべて。

そんな世界に生きて
いると、野生の本能ともいえる自分の中の
おサルがそうさせるから。

 
明日のバナナ3本より、今日の1本の

方が大切なんだ。
 
たとえば仕事のとき。よくある話だが、
こんな場合はとくにヒトの中の
サルがウキッと騒ぎ出す。
 
クライアントが、このアイデアで
やってみたらうまくいきました。
反応が増えました、アクセスが増え
たんです等とうれしそうに話をしている。
ほう、それは祝着ですなと返事をして
くわしく聞いてみる。

 
ところが、よくよく聞くとどうやらアイデアの
おかげというほどでもない。

偶然に状況が追い風だったとか、

それだけ大量に露出すれば
結果が出ない方がおかしい(でも、それって
コストがかかって赤字じゃん)とか、
実力というより運やツキの
おかげといった方がしっくりくる。
フロックに近いといってもいい。
 
でも、うれしそうに自画自賛している、
おサル状態の担当者に面と向かって、
残念ながら原因はあなたの力ではなく、
たんに運がよかったのではないかと
言えるわけもなく、さてどのタイミングで
うまいこと切りだすかと困ってしまう。
 
と、えらそうに言うけれど、自分だって読みが
当たったり、自分のアイデアでよい結果が出ると、
もしかして俺って天才?とか思うこともある。

 
それでも、ここはおごらず冷静にと努める

のだが、一方で謙遜しすぎると自信喪失に

なっていやだなと思ったりもする。

そんな具合で気の持ち方のさじかげんに
戸惑うこともないわけではない。

 
ちなみに、僕の周りには自称天才だと豪語する
奴が何人かいる(きっとあなたの周りにもいるよね?)。
それで、そういう奴らに
「自称天才に天才はいない」とつっこむと、
中にはそれを言っちゃお終いよと

「いや、そういわないと自信なくしそうで…」と
素直な姿をさらけだす奴もいる。

 
そうまでしないと自信を持てないのかと
笑ってしまうが、そうだよな、
気持ちは分かるぞ。
だって、人間だもの(by相田みつを)。
 
まぁね、自分を客観的に見つめることは
難しくもあるけど、うまくいった時は
自分を過信せずに運や偶然に助けられた
と思うくらいがちょうどいいだろうし、
原因を突き止めるなら、自分以外の状況まで
拡げて分析することだ。

 
失敗した時は反対に状況や他者のせいに
しないで自分の思慮や行動を省みる。
そういう姿勢が大切だとこの方も
仰られておりますよ。
 
 
★今回のビックリマークコピー言葉。
 
 
勝って不思議の勝ちあり、負けて不思議の負けなし
 
 
プロ野球チーム楽天の元監督、野村克也さんが
よく使う言葉。ご本人が考えた言葉ではなく、
何かの会合である経営者と話をしたときに、
その経営者が言ったものであるらしい。
(そう自著に書いてあった)でも、今では

野村名言のひとつとされている。

 
難しい解釈は必要ない。
ものごとがうまくいった時など、得てして
自分の実力と思って驕りがちになるけれど、
そうではなく、運やツキのおかげであることが
少なくない。

 
しかし、うまくいかなかった時は、
自分の落ち度などハッキリした

原因があることがほとんど。

つまり失敗の場合は、失敗するべくして
失敗するものだということ。
 
この言葉とはじめて出会った時に、
若いころ、ある経営者から聞いた

言葉を思い出したものである。

正確ではないが、
おおむね次のようなことである。

 
「結果には必ず原因がある。結果ばかり見て
判断をすると間違う恐れが大きい。
まずそこにどんな原因があったのかを
考えること。それを社員にも言っている」
さすが、大きな会社の社長は言うことが
違うなと感心したものだ。

 
今でもけっこう気にしている
言葉だけれど、野村名言に通じるものが
あるよなとあらためて思う。
 
結果には必然、偶然と何かしら理由がある。
そんなまっとうなことでも、僕らはすぐに忘れる。

とりわけうまくいった時は、自分の中のサルが

ウキャっとダンスするもんだから、
理由などどうでもいいとさえ思ってしまう。
結果オーライ、終わりよければすべて良し。
そして、間違った成功体験を己の実力と
勘違いしてことに当たることになる。

 
極端になると、自己評価が異常に高くなり
とてもイタイ状況へまっしくぐらと
いうことになる。
 
自分のいる業界の話だと、こんな

ありさまが想像される。

たとえば競合の露出がほとんどないときに
広告を出すなどキャンペーンを展開し成功したと
する。原因は素晴らしいアイデアとクリエイティブ
の勝利だと思ってしまう。(実際、そうかもしれないし)
でも偶然に競合の露出が少なかったという有利な環境
も大きな勝因であることは軽くみてしまう。
あるいは無視してしまう。(もし、意図して実施した
のならそれはみごとな作戦だけれども)
 
で、同じキャンペーンを再度実施する。しかし
うまくいかない。今度は競合もキャンペーンを
行っており、前回のように視界に敵なしという
環境ではなかった。

 
ところが、前回の成功体験にしばられて、
原因はアイデアやクリエイティブだと思ってしまい、
その修正に血眼になる。

たんに競合とガチンコ
勝負になったためかもしれないのに。

 
かくして見当違いなフィードバックによって、
失敗スパイラルに陥る。(まぐれでうまくいく
こともあるでしょうけれど)

ここまで分かりやすくはないが、これに近い

ケースにはよく出くわしたものである。
 
要するに、きちんと原因を分かっていないと、
間違ったフィードバック、間違った成功体験によって
失敗の袋小路に入り込んでしまう危険がある
ということである。
 
これがキャンペーンの失敗ぐらいならいいのだが
(いや、よくないか)、国の存亡にかかわるような
状況だと大変である。戦争なんていい例かもしれない。
 
1905年の日本海海戦での大勝利という成功体験に
しばられた海軍(連合艦隊)はその40年後に
太平洋の藻屑となった。
日露戦争と太平洋戦争のことである。

 
「昭和史」で知られる作家の半藤一利さんによれば、
太平洋戦争においても、海軍は日露戦争での勝利、
つまりバルチック艦隊を破った日本海海戦での
あまりに大きな成功体験に固執したことが
間違った戦略を生んだと指摘している。

 
海での戦いは、すでに航空機中心になった
というのに、開戦当初、海軍のエリートたちは
あの「坂の上の雲」の主人公のひとり、日本海海戦
勝利の立役者である秋山真之(ドラマではモッくんが
演じている)が考案した艦隊決戦案にもとづいて
対アメリカ作戦を立てていたという。

 
さぞかし坂の上の雲の上のあの世で秋山真之も、
東郷平八郎も、広瀬武夫もそんなアホな!
とあんぐり口をあけていただろう。
 
結果は分かりやすい。だから評価もしやすい。
それが正しいかどうかはともかく。
結果に対する原因やそこに至った理由を考える
のは面倒くさいし、さまざまな分析が考えられる。

結局、はっきりとした理由は分からないなんて

こともあるだろう。

評価も難しいことだってあるかもしれない。

 

それでもなんとか結果からプロセスをさかのぼり、

要素を拾い上げて、そこから何がそうさせたのか、

どうしてそうなったのか等と文脈を読み当てようと
する。

 

そんな人や組織はきっと視野の広い戦略眼とか
戦術眼を持っていて、なかなか負けないし、
高い問題解決能力があるのだろうなと思う。
 
自分のことを棚に上げていうけれど、
結果で一喜一憂するのは仕方ないとしても、
結果と原因を考える人は少ないように思える。
(個人的な印象ではあるが)
それでも悪い結果のときは、それなりに
原因をつきとめることをするが、よい結果の

時はそれほど細かくはつきとめない。

 
すべて自分の実力のおかげという

高すぎる自己評価。

そこから生まれるのは必敗まっしぐら
のおごりと、誤ったフィードバックによる
悪循環である。

 
仕事をとおして、そんな残念な企業や人々に
数多く出会ったきたし、広告業界もそんな

ところが多々あった。

ともかく、よい結果が出ても、ツキのおかげと

思うくらいがちょうどいい。
 
そう言うけど、運も実力のうちって言うじゃない?
それは自信をつけさせるために
誰かが言ったことが広まったのではないか。
それなら、不運も実力のうちとも言えるではないか。
でも、がんばっているにもかかわらず、
結果が出なくて落ち込んでいる人に向って、
そんな残酷なことは言えないね。

 
幸運も不運もあくまで運であって、雨や
風のようなもの。実力とは関係ない。
そう思った方が精神衛生上、ラクではないだろうか。
 

素晴らしい結果が出たら、
俺ってスゴイ、俺って天才、俺ってサイコー…と
自分の中のサルが踊りだすのは仕方ない。
でも、ひと踊りした冷静になって反省しよう。

 
反省だけならサルでもできる。
人間だから愛情一本。チオビタドリンク。
 

昔そんなコピーもあったじゃないか。
そこはひとつ、ドリンクの代わりに、
勝って不思議の勝ちあり、負けて不思議の
負けなし。そう言ってあげよう。
なんだかんだいっても、
サルも木から落ちるわけだし。

 

 

いまでもあちこちで

似たようなことが、

起きていると思う。

昭和陸海軍の失敗―彼らはなぜ国家を破滅の淵に追いやったのか (文春新書)/半藤 一利
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謝ってすむ話ではない

前回は負け組というか出遅れ組が
キャッチアップするときの第一声に
ついての話だったけれど、
今回は勝ち組の第一声について考えてみる。
 

売れているのであれば、特に手を打つ
必要ってないんじゃないなんて思うかも
しれないが情報量の状況をみると
悠長にかまえているわけにも
いかないのでは。
 
うすうすと気づいてはいたが、かなり
やっかいな状況だと思う。情報の流通量が
大変なことになっている模様だ。

 
こんな数字があるそうで、
平日のニューヨークタイムズ紙に書かれて
いる情報量は、平均的な17世紀のイギリス人が
一生に得る情報量より多いとか。

平均的なサラリーマンは、1年間に70kgのコピー
用紙を消費する。これは10年前の2倍の量とか。
 

総務省の調査によると、

平成20年度の流通情報量は一日当たり
DVD約2.7億枚相当(想像つかない!)。
平成19年度には前年度より約3700万枚、
平成20年度には前年度より約4500百万枚相当の増加。
 

あまりの量に、実感ができないけれど
毎日僕たちは膨大な量の情報を、ものすごい勢いで
浴びていることは確か。ドラックだったら、
完全にオーバードーズ、たぶん壊れますよ。

 
だからといって、人間の脳の記憶能力が格段に進歩
したとか、1日が7分3秒伸びたなんてことは聞かない。
おまけに脳は忘れるときたもんだ。いくら
たくさんの情報を消費したいと思っても、限られた
記憶容量と時間の中では限界があるわけ。

 
たしかにネットだのモバイルだのメディアが増えて、
情報を伝える、受け取る方法は増えたけれど、
それにともなって情報流通量も増えているわけで、
その中で注目を引くのはとっても大変だ。
 

とりわけ宣伝ということになると、つねに必要と
されている類の情報ではないため、受け手にとって
プライオリティは低い。
それでも、市場に継続的に情報を届けるのをやめると
すぐに忘れ去られるどころか、はじめから存在しなかった
と知覚されてしまう始末だ。
 

企業の中の人が、狂ったようにツイート(まさに
ツイート&シャウト!)したり、ブログを更新する様を
聞くにつけ、無間地獄に落ちた亡者のようだと
気の毒に思えてくることもある。
たとえ、ウチは売れてますからとか、人気ありますからと
勝ち状況であっても、あぐらをかいていると
すぐ忘れられる、そんな状況になっていると思う。

 
大抵の人は、先週降った雨のことなんて、大雨で

ない限り覚えてない。

広告のメッセージなんてその程度。
以上のようなやっかいな状況のもとどうすべきか。
 

お客さんの脳と時間の奪い合いに、勝ち組も負け組
もない。勝ち組も先行組も油断は禁物。
勝ってカブトの緒を締めよ。ゆるんだフンドシは
締め直す。そう、グッとTバックのようにケツに
くい込ませるのだ。勝ったら(それが局地戦でも)、
高らかに勝利を宣言しよう。お客にも競合にも
誰がチャンピオン(暫定であっても)か知らしめよう。
 

ドラッカー先生だって、こう言っていますよ。
 

‘何によって憶えられたいかね’
 

ま、ちょっとズレた引用になっていますけれども、
どんまい。とにかく、憶えてもらうことが
昔よりずっと困難になった。いや、これからは
もっと困難になったりして。
私もあなたもはそんな時代に生きておりますぞ。
 
 
★今回のビックリマークなコピー。
 
 
これからは、
ご不便なくお買い求めいただけます。
 
 
前フリがちと大げさ過ぎたけれど、
先を走っていようが、キャッチアップしようが、
つねにメッセージは届け続けなければいけない
という話。めんどうでやっかいだけれど。

 
で、これは無煙タバコ、ゼロスタイルの広告から。
タバコをたしまないので、無煙タバコなんてものが
あることを知らなかった。まさに、無縁タバコって感じ?
むかし、同じようなメッセージの広告があったね。
プレイステーションの売れすぎの謝罪?広告。
 
★コピーライターが思わず ! となったコピー。-plast
 
このタバコの広告のコピーでも、
品切れになったことを「お客様には大変ご不便を
お掛けいたしまして、誠に申し訳ございませんでした」
とお詫びをしている。
 

ちゃんと謝っているから誠実だなーと受け止める
こともできるけれど、ついその奥にある
メッセージを嗅ぎ出してしまう。
表面上はお詫びの広告、でも本当は勝利宣言だよね。
だって品切れになるほど売れています!と聞こえるもの。

上のプレステの広告もそう。
 
たしかにバンバン売れてますと言いたいけれど、
品切れで買えない人がいるわけだから、自慢が先に
出ちゃうと買えなかったお客さんはイラッとくるよね。

 
まずはお詫びで不満を鎮めてたい。
だから、不快感を与えないよう頭をたれながら
下からズンと入って、そしてぐぐっとゆっくり頭を
上げて最後にニッとスマイルするいんぎんな作法。
 

先人は良いことを言った。実るほど頭を垂れる稲穂かな。
謙虚に、謙虚に。でもここはちゃんと勝利を宣言すべし。
まぁスマートなやり方だこと。

 
もっとも、最初から少量しか用意しておらず、
すぐに品切れ、売り切れ状態を作り出して、
飢餓感を演出したり、注目をひくことも
可能なわけで、ついつい勘ぐってしまうことも
あるにはある。
 
考えてみれば、品切れでご迷惑かけています、
生産体制を整えますのでいつまでお待ちください、
お待たせしました、いつには入荷できます…
なんてお知らせというのは、お客を大切にする
お店や会社で当たり前のようにやっていること。

 
自社のサイトや公式ツイッターなどで直接
アナウンスすればいいことだし。でもそれは
お客さんとのコミュニケーション。
ところが、こうしたアナウンスを広告でやると
メッセージが違ってくる。

 
つまり、メッセージの意味合いがヒットの
喧伝へと転換してしまうのである。

言ってることが同じにも関わらずだよ。
つまり、その商品を知らない人、関心のない人
には、売り切れになるほど売れている商品という
ことを知覚させることが期待できるというわけ。

 
それは同時に競合へのけん制にもなる。
たとえ競合の商品も売れていたとしても、
それを言わないと、人々は知覚していないので
売れていないことと同じ。

競合が発信していなければ、優位に立つことも可能。

 

最終的にその商品がどのくらいヒットしたか
どうかはあまり関係ない。

たしかよく売れていたよねと記憶させる

ことが大切だ。

いわば知覚の奪い合い。

 

知覚と事実は必ずしも一致しないこと

なんかたくさんあるけど、
それも検証しようするヒマな人は少ない。
言ったもの勝ちというと身もフタもないけれど、
そういう戦法もあるってこと。
 
ベストセラー商品がダメ押しのように定期的に
売れていますとデータを出したり、ユーザーの賞賛を
載せて広告しているのをたまに見かける。

売れ行きをさらに伸ばすという目的もあるけれど、
そうしないとすぐに忘れられてしまうからという

忘却対策でもある。

 
最初に言ったように、僕たちの脳の記憶容量や
記憶力、それに時間は限られている。
そのくせ脳は、つねに新しい情報に飢えている
らしい。供給はしなければならぬ。

 
一方で、情報流通量だけは増え続けている。
すでにけた違いのオーバーロード状態。
重度の、死ぬ一歩手前のヤク中のような
状況になってしまっている。

 
そんな時代の宣伝は、毎日、選挙区を走って
名前を連呼する選挙カーのごとく、市場へ
情報を届け続けなくてはいけない。
それは負け組、キャッチアップ組も
勝ち組、先行組も変わらない。

 
ね、まことにやっかいな状況でしょ。
もう一度、ドラッカー先生の言葉を繰り返す。
 

‘何によって憶えられたいかね’
 

もちろん、これは自らの成長を促す
(強み、卓越性の追求)問いではある。
でも、広告の教訓みたいでもある。

反撃したいなら、待てと言え

戦国時代について書かれた小説や研究書を
読んでいると、合戦の定石のようなものを
知ることができる。戦の基本ってやつ。

 
たとえば、敵の兵力の方が多い場合、
少しでも相手の兵力をそぐことを考える。
敵が分散するよう陽動作戦を仕掛けたり、
ワナにかけて奇襲をして兵力を減らしたりと
初手は、なるべく相手との差を縮める
ことから始めるとか。

 
あるいは、味方の損害を最小限にとどめ
優位に戦が進められるよう、戦の前に
敵の中から忠誠心の薄い家来や属国に
目をつけて、寝返りを働きかける、
いわゆる調略というやり方とか。

 
こうした考え方というのは、時代が
変わっても、変わらないようである。
ビジネスも戦争だといわんばかりに、

経営戦略とかマーケティング戦術とか

「戦」という言葉が使われているように、

どこか戦いというものを意識せざるを得ない
わけだ。

 
今の世の商売だと、シュアの奪い合いや
顧客の獲得は、さしずめ戦における
領土拡大ということでしょう。

 
さて、ここに失った領土を取り返す、
あるいは領土流出を食い止めるために、
反撃を試みようとする企業がいる。
 

市場への参入も大きく出遅れて、あせって
いる模様。そこでどのようなメッセージを発した
のかというと、かつてドコモの
「そろそろ反撃してもいいですか。」のような
起死回生をねらった大ばくちでも奇策でもなく、
それどころか肩すかしのようなメッセージ。
 

でも、そのセオリーに忠実というか、
とりあえず、第一声はそれがいいよねと
納得してしまったよ。
いや、たぶんに深読みであるのだけど…
 
 
★今回のビックリマークなコピー。
 
 
未来へ行くなら、アンドロイドを待て。
 
 
auのスマートフォンの広告より。
ああ、なるほど。その手があったか。
CMでそのタグラインを見た時にも思ったものだ。

 
「待て」は、そのまま受け止めれば、
<新発売だよ、スマートフォン、カミングスーン
なのでそれまで待ってください>でよいのだろう。
けれども、深読みすればiPhoneを買うのを
ちょっと待ってねというメッセージ
だと言えないこともない。

 
最近ではアンドロイドOSのシェアは急激に
拡大をしているようだけれど、
日本国内ではスマートフォンといえば
知名度、シェアともまだiPhoneだ。

 
たぶん大半の人がアンドロイド?
何それ?という状況ではないかと思う。
印象としては、一周遅れどころか二周遅れの
アンドロイド。さぁどうするよって状況だろうか。

 
だから、まずはじめは「待て」で攻める。
遅れているのを重々承知だから「待て」で
iPhoneへ流れるお客を立ち止まらせたい。
狙いはそんなところじゃないかなと思ったわけだ。
(auはそこまで考えてないと思うけど)

 
スマートフォンがケータイのように成熟して
熟れすぎて困っちゃう、あとは腐るだけのような
市場ではなく、これから拡大するピチピチした
娘さんのような市場であることがチャンスだ。

出遅れてはいるが、市場はまだ発展途上なので

逆転は可能だ。

 
これからスマートフォンを選ぼうとする人の中で、
絶対、iPhoneがいい!というアップルファンの
ような層は捨ててもいい。
狙いたいのはどっちにしようかなという迷っている人、
iPhoneへの忠誠心の薄い人、iPhoneに不満がある人だろう。

 
つまり、一目散にiPhone売り場に直行する人ではなく、
とりあえずiPhone目当てだが、au売り場もキョロキョロ
したい人である。趨勢を見極めて決めたい人々を狙いたい。

 
そんな人にどんなふうに声をかければいいか。
まだ商品も出ていないのに。

アンドロイドはすごいよと言ったって、どうスゴイ

のか分からないだろう。まずは流れを止める、

そんなメッセージがあればいいのだ。

 
それが「そこのお客さん、待ってよ。もうすぐ
アンドロイド出るよ。それから決めても
遅くないんじゃね。あせると損だよ」という
ニュアンスを含んだ(と思わせる)「待て」

だと考えてしまう。

 
とにかくiPhoneに行くのを阻止すればいいのだ。

奇襲作戦でiPhone見込み客を少しでもそぐ、
iPhoneに傾きかけている客を寝返らせるのが
狙いだとしたら、なかなかの策士かもしれない。

 

あとはいろいろなチャンネルから、情報を届け

続けて「アンドロイドもすごい」という雰囲気を

作っていくのだろう。

 
商品が競合と十分渡り合っていけるなら、

出遅れても、「待て」と自分こそがメインイベンター

だと誇示しながら登場するのも、戦術的には

あるんだと思う。

 
iPodに席巻されたウォークマンだって「音質に
こだわりらいなら、ウォークマンを待て」なんて
言えたかもしれないし。

  

今の世は「巧遅より拙速を尊ぶべし」といかに
早く市場へ参入するかが運命をにぎると言われて
いるけれど、遅れてしまったら「ちょっと待った!」
と閃光弾を投げ込むようにデカイ声をあげて
ズカズカ入っていく。

 

あまりに普通なので、案外と思いつかないかもしれない。
(ただし、それなりの商品でないと、おととい来やがれと
ボコボコにされるかもしれないけど)

 
もっともアンドロイドOSが市場を席巻したとして、
今度は端末メーカーごとの勝負になって戦国時代と化し、
アンドロイド同士で熾烈な戦いになっていくのかなと思うと、
それはそれで大変である。

 

そんな戦いをしり目に、たぶんジョブス将軍は

少々シェアを奪われても、「ごみ虫ども、せいぜい

潰し合っていろ。わが帝国は痛くもかゆくもないもーん」
と相変わらず、俺は俺の道を行くべしと、ほくそ笑んで

いるのではないかと思うのだが。
 
ところで、auの広告ではキャラクターとして
レディー・ガガと陸上のウサイン・ボルト
選手が使われている。僕が見たのは、ガガバージョン。

 
ポップスの新しい時代を開いたのは、
ガガのド肝を抜くパフォーマンスだった。
というコピーが添えられていた。
ガガはサイバーパンクに出てくる女性アンドロイド
のようなキャラなので、ピッタリだと思う。
が、しかし、しかしだよ…
 
「ちょっと待てや~」と奇襲するかのように
ダイブする姐さん。たしかにド肝を抜かれます。

姐さん、なんちゅうカッコウですか。

★コピーライターが思わず ! となったコピー。-gaga01
 

 
そしてもみくちゃにされる姐さん。
あ、姐さん、乳が!SOS!
いいんですね、これでいいんですね、au。


★コピーライターが思わず ! となったコピー。-gaga02
 

 

同じもみくちゃですが、こちらは
カイリー姐さん、負けていません!

ゾンビにつかまっているわけではありません。

★コピーライターが思わず ! となったコピー。-kylie01
 

 
愛と美とエロをつかさどる、
現代のアフロディーテー、42才!
おじさんは、こちらの姐さんの方がいいです。
ガガ姐さんは、急に襲ってきそうですしね。


★コピーライターが思わず ! となったコピー。-kylie02

オマエ、毎日こんな画像ばっかり集めているんだろ

と言うのはなしですよ、旦那、へへへ。

5年前に戻れるならば…

女性に火をつけてあげる時は下から
持っていっちゃダメ。なぜか分かる?
むかし、バーでママから教えてもらった。
女性のタバコに火をつける時のマナーだと。


こっちはまだ若造で、分かるわけがない。
鼻毛を燃やすからと言いたいのをこらえて、
なぜですかと尋ねると、ママはライターをつけて
下から自分の顔を照らしうっすら笑いながら説明してくれた。

 
ほら、お化けみたいに不気味だし、それに老けてみえるのよ。

 

ある時、デザイン会社に行ったら、
知り合いのデザイナーがPCの画面を凝視しながら、
カチカチとマウスを鳴らしている。

 
何をしてるのかと尋ねるとデザイナーはうんざり顔で
お肌の修正と答えた。なんでも、女性立候補者の
選挙ポスターを作っているのだが、やっかいなことに
その女性はタレントなので、写真の修正依頼が
とても細かいとのこと。

 

小じわやシミはすべて消してほしいというリクエスト。
修正前の写真と見比べると、かなり若返っている。
しかし、修正箇所が多すぎるのか、収拾が

つかなくなっている。

 

修正箇所と周りの色をなじませようとしているが、

そのためCGイラストのように陰影や
質感のないのっぺりした顔になっている。

よせばいいのにテカリまで入れているので、

ますます作り物めいた感じになっているのだ。

 
あははと笑う。すると、CG整形顔の

女性候補者の目がぎろりとこちらを睨む。
こちらの非難を見透かしたように

PCのディスプレイから語りかけてきた。

 
ちょっとあなた、バカにしているけど老けて
暗い顔したおばさんに誰が期待するものですか。
人は私の若々しさと笑顔に希望を託して
一票を投じるものなのよ。見た目なのよ。
年をごまかしているわけじゃないし、
何が悪いっていうのよ。

 
たしかに。とがめる権利はない。
あれ、ポラと実物が全然違うぞ、指名料返せと
怒る風俗店の客ではないのだし。

 

若葉は黄金に勝る。(キリッ
何かの映画でジャンヌ・モローが若さの価値が
分かっていない娘に言っていたのを思い出す。
そうなのだ。若さの価値なんて、若いうちには
気づかない。人生も後半戦に差し掛かったときに
気づき、そして後悔するものだ。

 

あの日にかえりたい。時間よ止まれ。
それは無理な話ですよ、でも、
かえった気分になること
くらいはそう難しくないようで。
 
 
★今回のビックリマークなコピー。
 
 
胸もと、-5歳へ。
 
 
カサつき、コナふき
きちんとぷるんと
-5才肌。
 
 
最近観た2つのCMで、偶然だろうけれど
「-5才」がキーワードになっているのを発見。
一つめはワコールのインナーのCM、
二つ目は花王ソフィーナのプリマヴィスタのCMより。

 
だいたい同じ時期に観たということもあって,
ちょっと印象に残ったのだ。会社やブランドを横断した
キャンペーンってことはないだろうけど。

 
以前にも花王ソフィーナはファインフィットの広告で
夕方差がつく-5才肌」と-5才を強調していた。
-5才が花王の商品開発テーマ?

 
たしかに、若々しいという形容詞よりは、

-5才の方が具体的でイメージしやすい

のだろうが、なぜ5才なのだろうかとつい考えてしまう。

 
女性は5才若く見られたがっているというデータが
あるのか、それとも2,3歳じゃ違いが実感しにくい、
でも10歳だときついし、5歳くらいがちょうど
いいんじゃない!というマーケティング戦略
からきたものなのか、それは分からない。
 
ともかく、5年という時間には侮れない重さがある。
年をとるほどに感じているのだけれど、
人間が徐々に身体に衰えを感じる30代から50代くらいの
5年というのは、歳月以上の負荷を心身に強いてくる。
しかも、負荷は年をとるほど重くなっている気がするし。

 
それでも科学と技術の進歩が人類の欲望を

ますます深くする。
昔からひたすら時間と重力に挑んできた。
いまさら止められない、人類の永遠のテーマだ。
 
いや、人類のなんとかという深い話でもない。
女性の若く見せる、キレイに見せる技術というのは
ずいぶんとレベルアップしてきたのだと思う。

 
とくに男だとなかなか見破ることができない

こともある。でも、さすが女性はよく分かっている。
あの人はキレイだとか、とてもあの年には

見えないなんて言うと、たいてい分かってないねと

鼻で笑われる。

 
そして、あそこはこうして、あそこは寄せて…など
不正を告発するかのように容赦なく
マジックのタネを明かしてくれる。

 
なるほどと感心したりもするのだが、

分かってうれしいかというとそうでもない。
たとえタネがあっても、イリュージョンを
楽しむ方がうれしいのだが。
 
世の中には知らないほうがイイこともある。
なんでも検索して知ることができる

時代だけれど、無理して知ったために

がっくりするのもちょっといやだ。

 
チョコを食べようとしているのに、そばから
そのチョコの原料のカカオは、実はアフリカの
貧しい村で小さな女の子が、ろくに食事も与えられず、
学校にも行かせてもらえず、しくしく泣きながら
採ったものですよ。それでも美味しい?と
言われたら、甘さはたちまち苦さに変わるだろう。

 
それはそれ、これはこれ。できれば、
チョコは美味しくいただきたいのが正直な気持ち。
もちろん、だまされるのは勘弁だが、
それはそれでいいじゃありませんかという姿勢で
さらりと受け止めるくらいにしておいた方が
しあわせなことだってあるんじゃないか。
 
女性の-5才への挑戦も同じだと思う。
彼女たちのとても他人には見せられない
バックステージの姿やマジックのタネを
辛口評論家のように分析しても

いい気分にはなれない。
 

劣化の激しさをメイクでごまかしているw

とか掲示板で読んでも、

なんだか心が荒むんですわ。
 
知ったために大きなものを失うこと
だってあるだろう。
そのことを僕たちは昔話で学んだはずだ。
「鶴の恩返し」を思い出そう。

 
人間の娘に姿を変えた鶴はこう言った。
「布を織っているときは、決して部屋をのぞかないで」
それを破ったために老夫婦(あるいは青年)は
娘とのしあわせな日々や収入を失ったはずだ。
 

見てはいけない、知らなくてもいい。
こうしたタブーのモチーフは昔から世界中の
神話や民話で使われてきた。
遠い昔から人類は、真実を知れば失うことを
伝えてきたのだ。
 
コピーライターのような仕事をしていると、
実に知らなくていいことばかりを

見たり分かったりする。
中にはちょっと言えないなとか、

言っちゃたら興ざめすることもたくさんある。
なおさら、知らないことのしあわせが分かるのである。
 
検察や警察の取り調べの可視化は必要だろうが、
-5才の可視化までは必要ないよ。
 

だから、いまだに女性のたばこに

火をつけていない。

 

 
ところで、女性のエイジングケア関連は

多岐にわたっているようだけれど、広告から

見る限り、男性市場は頭髪と下半身と

アッチ方面ばかり。

 

先日の50代のなんとかというクリエイターと

AKBの娘のチョメチョメ報道に触発されて、

「いつかはAKBのような娘と。」と昔のクラウンの
広告コピー(いつかはクラウン。)のような
気持ちになったオッサンが増えたのでは

ないだろうか。マカなどアッチ系サプリの

広告を打つにはいいタイミングだっただろう。
 
話は変わるが、-5才同様にこの夏に

よく見かけたのがキスを使った

CMやキャンペーン。
 
綾瀬はるかちゃん出演のパナソニックのデジカメのCM。
オンエアの度に食い入るように見てしまうので、
商品名や企業名がさっぱり覚えられません。
キスというよりも、口づけという感じ…うへへ。



★コピーライターが思わず ! となったコピー。-ayase

 

 

新聞広告でもやっていたけど、
ニュージーランド航空のキャンペーンサイト

一見、ソッチ方面のお店のサイトのようだが、
次々と社員の方が現れてキスの嵐を降らせます。
美女もいるけど、オッサンもいるので油断しないこと。


★コピーライターが思わず ! となったコピー。-nzair

 
ガムのクロレッツのキャンペーンのバナー。
ガムはお口の恋人ですから。
★コピーライターが思わず ! となったコピー。-gum
 
 
 
キスの写真というと、すぐに思い出すのが
Elliotte Erwitt(エリオット・アーウィット)の写真。
Fairground Attractionというバンドの
アルバムのジャケットでみたのが初めて。
それ以来、好きになった。
日常の中のユーモラスな一瞬や物語の

浮かんでくるような写真が特徴だと思う。


★コピーライターが思わず ! となったコピー。-kiss

Erwittは報道やポートレートの他に
広告写真も多く撮っていて有名なのが、
フランス政府観光局の広告(広告代理店はDDB!)


★コピーライターが思わず ! となったコピー。-france02

 
Erwittのサイトはこちら
代表作はだいだい見ることができますよ!


★コピーライターが思わず ! となったコピー。-bulll


 

 
ついでにもうひとつ、キスの写真でイイのが、
Herbie Hancockの「Speak like a child」
ジャズピアノの傑作だけど、中低音の
ゆったりとしたホーンのアレンジが素晴らしい。
この写真の雰囲気がサウンドになった感じ。

スピーク・ライク・ア・チャイルド/ハービー・ハンコック
¥1,100
Amazon.co.jp

ゾンビと正義の話をしよう

オタワ大学の研究チームによると
もし、ゾンビが発生したら人類は滅亡するという。
研究チームは鳥インフルエンザなど伝染病の
世界流行を予測するモデルを使って計算したそうで、
積極的にゾンビを撃退しないかぎり人間は
食べつくされるらしい。(つまり逃げるばかりでは全滅)
 
ゾンビの条件は、ジョージ・A・ロメロの映画のゾンビに
準じているようで、動きが遅い、首を切り落とすと死ぬと設定。
もし、「ドーン・オブ・ザ・デッド」のゾンビのように
ガンガン速く走られると、滅亡はひとたまりもないかも。
 
ありえないと思う?もちろん死体がむくっと置きあがって、
うがぁーと人にかぶりつくことは現状では考えにくい。
でも、どこかの研究機関が極秘開発したウィルスがなにかの事故で
流出して住民が汚染されてしまうなんてバイオハザードは
ありえる話じゃない?(流失しなくても、口蹄疫のように
いつのまにかってケースもあるだろうし)
 
そのウィルスに汚染されると、凶暴になって人を
襲い出す。噛まれて感染するとその人も同じ症状に…
そうなったら、どう生き抜くべ?
ウサギのように臆病な僕は、ゾンビ映画や小説を
観たり読んだりするたびに考えてしまう。
 
アメリカでは対ゾンビサバイバルの心得が確立されているようで
フロリダのある大学では対ゾンビマニュアルを冗談で作った
という話を以前ネットのニュース記事で読んだ。
抗議があったとかで、すぐに削除されたらしいけれど、
ゾンビ大国ならでは話だ。
トヨタもそこを意識したのかどうか分からないが、
これならゾンビに襲われても安心ね!といわんばかりの
クレイジーな広告を作っている。
$★コピーライターが思わず ! となったコピー。-toyotazombie
 
オフィシャルかパロディかは不明だが、アホっぽくていい。
ちゃんとヘッドラインにEquipped for a zombie attacked
ってある。さすがゾンビ先進国USA。
ちなみにこの広告が出回っていた頃、トヨタはアメリカで
激しいバッシングを受けていた。
 
怖がりなので、ホラーものはそれほど観たり読んだり
しないのだが、ゾンビもの(特にジョージ・A・ロメロ作品、
あるいはそれらの影響の多いもの)は、他と違って
後に残るんだな。いろいろなことを突きつけられるのだ。
それも、けっこう生きる上で大切なことを問われている
感じがする。
たとえば、どんなことかというと…
あ、その話の前にくだらないけれど、お茶目なコピーをひとつ。
 
 
★今回のビックリマークとなったコピー。
 
 
海に行けばよかった…
 
 
$★コピーライターが思わず ! となったコピー。-deadsnow03

そんな状況でそのセリフかよ。
く、くだらない…が、見過ごせなかった。
  
「処刑山―デッドスノウ」というゾンビ映画のフライヤーより。
なんでもノルウェーの雪山で、バカンスに来た若者たちが
冷凍されていたナチスの兵士ゾンビに襲われる内容らしい。
ご覧のとおり、ウケをねらいましたね?って
感じがありありだが、こういうセンスは大好き。
 
それでね、ゾンビものを観て何を思うかというと…
まず、正しい倫理や道徳をどこまで保てるかということ。
ゾンビが発生すれば、社会や街といったコミュニティは混乱に
陥って、おおむね崩壊する。
 
その時、正気を保てるかどうか。略奪まではしないと思う
(そんな奴はだいたいゾンビに食われる)が、自信はない。
無人になったコンビニから弁当を失敬するかもしれない。
その時はカウンターにお金を置いていこう(でも、お釣りはあきらめ
よう、もたもたしているとゾンビに食われるし)。自信はないけど。
 
それでも、盗みくらいは状況が状況だけに
仕方ないと言いわけできるが、最も倫理観を問われるのが、
非情になれるかということ。ゾンビものの最大の悲劇は、
時には家族や友人を殺す、あるいは見殺しにする場合があることだ。
ゾンビものでは、ゾンビに噛まれるとゾンビになる
というお約束がある。
 
どうみてもゾンビで、知らない人で、襲ってくれば
やっつけるか逃げるしかない。(武器がない時は逃げようね)
かりに、ゾンビになった上戸彩ちゃんと出くわしてもだ。
ちょっと触ってみようとか、YouTubeにアップしよう
なんて考えないようにしたい。スケベ心を出すと
ガブリとやられかねない。速やかに逃げるべし。
 
でもね、家族や友だちだったらそうはいかないよね。
ゾンビ映画にはそんな葛藤のシーンがよく出てくる。
たとえば、ゾンビになって親や子どもを襲うくらいならと
自ら死を選ぶとか、なんとか治療すれば治ると思って殺すの
をためらい、逆に食われてしまうとか、
 
どうせみんな死ぬのだからと悲観して自らすすんでゾンビ
になったり、食べられたりするとか、
仲間がゾンビに襲われているのをしり目に
泣く泣く逃げるとか…
 
と辛すぎる状況や悲痛な選択を
強いられる場合が出てくることがある。
もし、自分だったらどうするかと考えてしまうはずだ。
しかし、覚えていてほしい。ゾンビに情けは禁物。
 
まれに人としての記憶が残っている状態のゾンビが出てくる
場合があるが、ゾンビには感情や人情や愛情はない。
でも、食い気という根性はある。
生きたいなら非情になるしかないのだ。とてもつらいけれど。
 
しかし、僕たちはもっと厄介な状況に出くわす可能性がある。
怖いのはゾンビだけではない。場合によっては最大の敵が
人間になることも覚悟しないといけない。
 
コミュニティが混乱すれば、生存者自らが新たにコミュニティを
作る状況が出てくる。それが利他的精神に基づいていれば
いいが、エゴの塊のような利己的、排他的なコミュニティだったら最悪だ。
 
武器などでスーパーを占領して、法外な金を払わないと食べものを
売らないとか、若い女以外は助けないとか…そんな極悪な連中が必ず出てくる。
ゾンビから逃げようとはぁはぁ言いながら走っているのに、
そのそばを車で通って「がんばれや~」とか言うような人間だ。
いい奴、悪い奴、ゾンビの三すくみの中で生き抜かねばならない。
 
自衛隊や警察が機能していれば、人間同士のいさかいのリスクも
減るかもしれないがあまり期待できないだろう。
ゾンビ対応マニュアルなんてないはずだから、人を見たらゾンビと
思えといきなり撃たれるかもしれない。
 
以上のように、ゾンビという異物は人間社会に現れた瞬間、
恐怖のみならず、無秩序と混沌、人心の荒廃まで生み出すわけで、
僕たちは否応なしに必死のサバイバルを強いられるのだ。
 
そんな異常な状況だからこそ、道徳とは正義とはといった
普段それほど深く考えないことを次々と問いかけてくる。
(唯一、確かなことはフライパンは必要だということくらいだ。
フライパンはゾンビをぶっ叩く武器にもなるし、防具にもなる。
調理もできるし水も汲める。ヒマなときはテニスもできる。
もちろん汚れが落ちやすいテフロン加工は常識だ)
 
だからだろうか、ゾンビものを観たり読んだ後は、その終末感も
手伝ってかどよ~んと重い気分になりがちだ。
でも違った見方をすれば、ゾンビものって議論しがいのある素材だと思う。
 
哲学から危機管理のマネジメント、倫理やメディアの
あり様までおおよそ生きていく上で必要なことのほとんどを
語ることができるからね。
 
とくにロメロは自分の作品にそういうテーマを入れているし。
だから、つい考えてしまう。
たとえば、ゾンビが蔓延する世界における「正義」について、
ハーバード白熱教室のマイケル・サンデル教授はどうディベートを
展開するのか。これは面白くなると思うよ。
 
あるいはゾンビが発生した街で野球部のマネージャーをしている
女子高校生がドラッカーを読んでどうコミュニティを
マネジメントして生き延びるのか。サバイバルの教科書に
なるかもしれない。
 
ゾンビパニックは極端な状況だけに、テーマが強くあぶり出される。
そのため、より興味を持って深く考えことができる。
そのあたりが、他のホラーとは違うところ。たかがホラーかもしれないが、
人間を見つめる上で最良のショーケースではないかと思うのだ。
 
とはいえ、サンデル教授のような知見を持った人が、ディベートを仕切って
くれればいい議論ができそうなのだが、僕にはできません。
そんな話を飲み屋で話すと、だんだん周りもどん引きしていきますから。
「あのグチャ~っていう。そう、そこの牛モツみたいな感じ~」とか
言っちゃうからなんでしょうね。
 
マイケル・サンデル教授、ゾンビと正義について語ってくれませんかねぇ。
$★コピーライターが思わず ! となったコピー。-sandel
「ハーバード白熱教室」の最新オンエア情報
 
 
おまけ:ゾンビあれこれ
 
ナイト・オブ・ザ・リビングデッド(1968)
リビングベッドではありません。リビングデッドです。
次作の「ゾンビ」とともにゾンビ映画の金字塔です。
監督はジョージ・A・ロメロ御大。
はじめにCMが入りますが、全編(字幕なし)観れますよ。
残酷シーンはほとんどありませんが、いろんな意味で怖い。


 
ゾンビではありませんが、飲み水から凶暴になる
ウィルが感染して、てんやわんや…ロメロ作品のリメイクです。
もうすぐ公開「クレイジーズ」

 
アイアムアヒーロー
青春マンガと思って読み始めたら、
あんた、ゾンビのようなのがゾロゾロと…
街や友人がすさまじい勢いで壊れまくっていきます。
人類が終わる時はきっとこんな風に…
花沢健吾先生の傑作です。目下連載中!
アイアムアヒーロー 4 (ビッグコミックス)/花沢 健吾

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高慢と偏見とゾンビ
ジェイン・オースティンの名作をマッシュアップした
怪作らしい。全米では「もしドラ」のように売れまくったとか。
やはりゾンビ大国USA。ナタリー・ポートマンが映画化権を取得、
主演なさるそうです。素敵です、ナタリー。
高慢と偏見とゾンビ(二見文庫 ザ・ミステリ・コレクション)/ジェイン・オースティン

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おまけ2
ゾンビが現れた時にやってはいけない10のこと
よい子はしっかり覚えましょう!

個人的にひとつつけ加えると…
11.たらたら歩いてはいけない
ゾンビがのろのろ歩くからといってバカにしてはいけない。
逃げる時は走る。カメをバカにしたウサギはどうなった?

見るのではなく、見ようとするのだ

お名前は忘れてしまったが、有名な動物写真家に
番組のレポーターが、よい表情を撮るコツについて
尋ねた。写真家の答えはよく見ること。

 
被写体をじっくり観察することだそうだで、
よく見ることでよい表情が見つけられる。
動物でも風景でもとにかく記録に残すことに夢中で、
被写体を見た気になってしまっているが、実際はちゃんと
見ていないことが多い。そのような話だったと思う。
 

あまり考えないで感じたままにシャッターを押しても
偶然に面白いものが撮れることだってあるのだろうが、
コントロールできない野生動物のよい表情を
押さえるにはその瞬間を感知することも必要なわけで、
それには被写体をよく見てよく知ることが大切だと
いうことだと思った。
 

そういうことで、近所のなじみのノラが熟睡

していたので、じっくりガン見してパシャ。

★コピーライターが思わず ! となったコピー。-sleepcat

ところで、よく見るとただ見ることの差は何だろう?
すぐに思いつくのは細部まで見る、すみずみまで見ること。
でも細部まで見るだけ、それでいいのかな?
想像力を働かすというのはどうか。

 
「もしかしたら」と仮説を立てたり、「なぜだろう」と疑問を
呈するといった対象についてあれこれ想像する、
思いめぐらすという深く見ることもそうではないかと思う。
 

よく聞くことも同様だ。言葉の意図は?とか
相手の立場になるとどうか?とか、いろいろと
想像力を大きくしながら聞くのは大切。

 
もっともそう言うのは簡単だが、いつも想像力を
働かせてものごとを見たり聞いたりしているかというと
そうなっていないわけだが、よく見てよく聞くと
見過ごしてしまいそうな機微をとらえたような表現が
生まれてくることがあるんじゃないか。
 
 
★今回のビックリマークなコピー。
 
 
「何もいらないわよ」は、ウソです。
 
 
スーパー西友、サニーの母の日向けの

商品カタログ(去年)から。
ホンネとタテマエのギャップのすくい取り方が上手いし、
ちゃんとプレゼントしなくちゃと思わせる動機づけも
できている。

 
言われてそうだよねと気づかされるが、ボーっと
していると捕らえそこなう日常の些事だ。

相手(この場合は母親)への想像力を大きくする、
あるいは仮説を立てないと出てこないような表現だ。


コピーに限らず、小説やマンガ、映画での表現においても
こういう日常の中のささやかなシーンでの機微が
さりげなく描かれている場面と出会うと
作った人はよく見ているな―と感心する。
 

細部に神は宿るというけれど、きっと想像を働かす
センサーがひとつもふたつも違うのだろう。
とはいえ、考えてみれば日本人は「察する」ことに
長けている(とされている)こともあるから、
もともと想像を働かせることに敏感なのかもしれない。
そういう部分があることを自覚しているなら、
大切にしてください。

 
では、よく見る、よく聞く力をつけるには
どうすればいいの。
日々家庭や職場の中で想像を働かす環境に
身をおくことくらいしか思いつかない。
会話などコミュニケーションを通して磨くしかない。

 
大丈夫と言っているが、どこか心配そうな顔をしている、
どうして?もしかして…など思いやるように

接することを意識する癖をつけるしかない。

 
コピーなど広告の表現を考えるときも、
やっぱり商品を使う人のことをあれこれ想像するわけで
思いやるセンサーを日々鍛えておかないと、
いざという時に出てこないもの。

 
あとは、小説や映画で物語にたくさん触れる

というのもいいのかもしれない。会話や描写から

機微や心情を感じ取るということだ。

 
物語といえば先日読み返したマンガにあった言葉も
コツの一つかもしれない。

 
見ようと思わなければ見えないもの
ずっとそこにあっても―

(「誰かと見上げる花火/海街dialy3」)

 
ああ、そうか。見るんじゃなくて見ようとしないと

ダメなんだ。

 
それはそうと、この母の日向けカタログの最後の

ページには父の日向けの商品が紹介されている

のだが、そのコピーが

 
パパは、なんでもうれしい。
 

これも、よく見ているなーと思うのだが、
何ともぞんざいな感じがリアルで可笑しい。
母の日に比べて、どこか父の日はスケールが小さく、
それでいいのだという世間のコンセンサスも定着している。
だから仕方がないということか。
つまり種よりも、畑が大事ということでOK?



前述の漫画「海街dialy1~3/吉田秋生」
鎌倉を舞台にした四姉妹の話。
向田邦子の小説のようだと評されていたけど、
ありふれた日常の中にある家族の哀歓が
ていねいに描かれており、読んだ後は
なんだかやさしくなれる。
中でも「蝉時雨のやむ頃」はもうねぇ…
ティッシュがねぇ…。

海街diary 1 蝉時雨のやむ頃/吉田 秋生
¥530
Amazon.co.jp


それとお知らせです。
先月、2冊めの著書が出ました。
<「売る」文章51の技>
前作の弟分にあたるもので、
今度はボディコピーなど長いコピーを
書くコツをまとめています。

 

久方ぶりにコピーの通信講座でも

開講しようかと思い、そのテキストにと

思って考えていたものなので、

基本的なことはほぼカバーしています。
目次や内容はコチラ


★コピーライターが思わず ! となったコピー。-売る文章




飢えた未亡人‘私を悦ばせて’

なんだか、昭和のポルノ映画のような
釣りタイトルですが… 
 
WEBユーザビリティの第一人者、Jakob Nielsenの
レポート
によれば、
ユーザーがサイトを見るさいに特有の傾向があるそうで。
 
たとえば、
・左から右へ読む言語の場合、視線はF字で流れる。
※印刷媒体ではヨコ組はZ字、タテ組はN字と習ったものだ。
・閲覧時、ページの左半分に時間の69%を使う。
・ユーザーの読むテキストの量はページ全体の28%~20%
・ユーザーは流し読みをする。だから重要なキーワードは
最初に入れる。(最初の2語で勝負)
 
…と他にもあるけれど、かいつまんで言えば、
WEBのデザインやテキストのこしらえ方は
左サイドがカギとなることが分かる。
ユーザーは左サイドで、すべてを把握
しようとするのか。
 
そう考えると、ヘッドラインや見出しを書く場合、
最重要キーワードは左先頭にもってくるとか、
文脈なしでも意味が分かるようにするとか、
きわめて簡潔に短くするとか、
印刷媒体とは異なったセオリーで
対応しなくちゃいけないようだ。
  
最近みたネットのスポーツニュースの見出しだが、
ACミラン ベッカム後継に本田を指名!
とあった。イタリアの新聞なので「本田」は後ろに
下げれらている。
イタリア国内では、ACミラン>本田という位置づけ。
 
でも、これでは国内では見過ごしされてしまう。
WEBユーザビリティのセオリーに従うなら、
国内のニュースのヘッドラインでは、
本田獲り ACミラン、ベッカムの後継に指名!
と「本田」を主役とするべき。
国内のスポーツ紙(ネット版)でみた
本田獲りに動くミラン 評価はブラジルのエース以上
のように、最重要キーワードである「本田」を
先頭にもってくるようにね。
 
ものごとを考える時、押してもダメなら引いてみな
というように、いったん思考の大手門から
外れて、からめ手に回って考えると突破できることも
多々あるわけだ。
 
次のやつも、言ってみればからめ手を
ねらった逆サイド攻撃と言える。
この場合、コピーが正確なパスの
代わりになるわけだが。
飢えた未亡人の悦ばせ方
とでも言おうか。
 
 
★今回のビックリマークなコピー。
 
 
女性のみなさん、
この夏ワールドカップから抜け出して
サッカーよりあなたに時間を費やしてくれる
男性のいる国、スイスに遊びに来ませんか。

  
 
スイス政府観光局のCMより。
2006年のサッカーワールドカップドイツ大会の
開幕前に行われたキャンペーンだ。
ユニークなアイデアということで
日本のメディアにも取り上げられたのを覚えている。
CMでは、登山ガイド、乳搾り…次々とスイスの
イケメンたちがまぶしい笑顔で登場するというもの。

 
コピーの日本語は、サッカーの代表チームの
選手や監督たちの言葉を集めた本、
「俺たちが戦う理由。代表選手200の名言
(いとうやまね著)」より抜粋。
 
キャンペーンの成果については分からないが、
ねらいどころといい、タイミングといい
うまいことを考えたものである。
 
サッカー未亡人(夫や彼氏がサッカーに夢中になって、
放置された妻や彼女たち)自体は、昔から言われている
もので、市場としてみると大きな儲けのチャンスが
あるわけではないように思われるが、ワールドカップ
によって、市場の拡大やニーズが高まることが
期待できる。チャンス到来というわけだね。
一見奇策のようだが、理にかなっている。
 
市場の逆サイド攻撃である。
サッカーを見ていると、大きくサイドチェンジを
する場面が出てくる。
ボール付近に敵も味方も密集してしまい、
攻める側からすれば、パスを通すことも、
ドリブル突破もできにくい状況だ。
 
だから、たとえば左サイドからポーンと
右サイドへボールを出す。
そこに味方が走り込む。あるいは先に
走ってパスを待つ。そしてそこから
攻撃の起点を作る。
敵のプレッシャーも少ないし、スペースも
あるので攻めやすい。
わざと敵を一方に引きつけておいて、がら空きに
なった逆サイドにふるなんて方法もある。
 
逆サイドにはチャンスがあると考える。
商機で言うと、特需を生むホットな追い風市場の
反対には、クールな無風のがら空き市場も
あるということ。
世の中がそれ一色になったりすると、案外
見落としされがちなんだろう。そんな中で、
ワールドカップに興味がない人だって
大勢いるんじゃないの?と考える人は賢い。
 
七色のパスを出すシャビや
セスク(←サッカースペイン代表)の
ように視野の広さと高い状況判断力を
持ちたいものである。
  
追い風市場は、チャンスも大きいが競争も激しい。
大失敗することもないが、労力のわりには
得たパイは小さいということもある。
 
しかし、その逆サイドとなる市場は大きくはないが、
参入が少ないために競争は緩い。その分、商売が
しやすいはずだ。
 
大きなパイを大勢で競い合って奪うか、
パイは小さいが競争が少ないところで
儲けるか。リスクゼロではないにせよ、
アイデア次第では場合によっては独占もできる。
(いやいや、両方ねらうことだってできる)
 
今回のワールドカップの時も、わざわざ大きな
スクリーンを借りて、ワールドカップ放映中!と
集客をする飲み屋もあったが、静かに過ごしたい
お客さんだっているはずだ。そこを取りこむ手も
あるわけだ。
 
だからね、よけいに不思議なのだ。
なぜNHKから民放まで、横並びに参院選の
特番をしたのか。
リスクが怖いのか、視野が狭いのか。
何も考えていないのか。
新作でなくていいからドラマや映画の
連続放送の方がよかったんじゃないの
と思うのだ。
 
おかげで、ワールドカップ決勝までの仮眠に
使えたので個人的にはよかったけれど。

サッカー 俺たちが戦う理由。 (COSMO BOOKS) (コスモブックス)/いとう やまね

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パラグ哀にしてやってください


★コピーライターが思わず ! となったコピー。-okada01

と、思っているかどうかは知りませんが、
いまの岡田監督には、赤穂浪士の大石内蔵助
のような深慮遠謀の智将イメージすら漂っています。
 
たとえベスト16で終わっても、不甲斐ない
内容でなければ、賞賛は止むことなく
インタビュー記事や関連書籍など大会後も
岡田人気は続きそうな按配だと予想できます。
 
振り返れば、ベスト4とか世界を驚かすとか、
突飛な発言ばかりが取りざたされて
発言に秘められた真意も含めて、岡田監督像
なんてものは、あまり深く伝わっていませんでした。
当時はそんなことに関心を持つ人もいなかった
でしょうけど。
 
でも、ここにきて俄然、岡田武史監督の人物像に
興味をもった人は多いはず。もちろん僕もそうです。
 
どんなフィロソフィを持っている人なんだろう?
そんなことを思っていたら、興味深い記事を発見。
代表監督についての思いやベスト4発言の理由の一端など、
岡田監督の信念がかいま見えますよ。
 
記事は昨年12月、早稲田大学で行った講演
「日本代表監督の仕事とは」 です

一部抜粋すると、
 
「負けるのは仕方がない。でも、このままだと
何回やっても同じことの繰り返しだ。
どうしたらいいんだろう」ということで考えたのが、
明確な共通した目標を持つこと。
(中略)
W杯で世界を驚かすために、パススピードを上げたり、
フィジカルを強くしたりと、1つずつ変えていくと、
かなりの時間がかかります。
 
ところが、一番上の目標を
ポンと変えると、オセロのように全部が変わります。
「お前、そのパスフィードでベスト4行けるの?」「お前、
そんなことでベスト4行けるのか?」と
何人かの選手にはっきりと言いました。
「お前、その腹でベスト4行けると思うか?」
「夜、酒かっくらっていて、お前ベスト4行ける?」
「しょっちゅう痛い痛いと言ってグラウンドに寝転んでいて、
お前ベスト4行けると思うか?」、もうこれだけでいいんです。
 
マンガ『バガボンド』の中で、若き日の宮本武蔵が
「人は笑うが、天は笑わん」と言っていたのを
思い出しました。
 
笑ったのはメディアや私たちだけで、どうやら
フットボールの神様は笑っていなかったし、
岡田監督も選手たちもどこまでも本気にした
感じが、今になってひしひしと伝わってきます。

 

いつのまにかベスト4という言葉が、
目標以上の存在、たとえば原動力のように
チーム内に浸透していったのではないかと
つい思ってしまうのです。
 
少々長い記事ではあるけれど、
腹具合、でなくパラグアイ戦に向けて
景気づけに一読してくださいな。

 
岡田監督が‘信念の人’
であることがよく分かります。
それと、人心掌握にとても長けた人で
あることも。
 
今回の代表の一体感をみると、
そのことと無関係ではないと
思います。

 
サッカーに興味がない、それどころではない、
そんな人に、何をばか騒ぎしているんだ、
この日本が大変な時に!と不快に思われることは
承知しています。
 
でもね、特別いいことがあったわけじゃないけれど、
この2週間ばかりは、なんだか幸せな気分を
味わっている人は少なくないと思うんですけど。
 
そのようなわけで、
世の中をちょっと明るくするとか、希望を見せるとか
もはや政治では無理なことをやってくれた
代表チームにはとても感謝しています。

 
もちろん、選手にはそんなことは知ったことでない
と勝負に集中してもらえればうれしいわけですが。
 
夢や希望でお腹は膨れませんが、
ないと生きていけないものです。

 

今夜、勝ったら泣いてもいいですか。
 
 
★今回のビックリマークなコピー。
 
 
僕らはサッカーで、
何度でも夢を見ることができる。
 
悲願の初出場まで9回に及ぶ、本大会への挑戦の歴史。
まだ世界を遠くに感じた、フランス大会。
見も知らぬ誰かと抱き合った、日本での初勝利。
大きな期待に誰もが束の間の夢を見た、ドイツ大会。
ひたすらに夢を追い、さらに加速したこの10年。
この進歩を、僕らは世界に誇ってもよい。
だが、世界には夢を追い続けてきた深い歴史がある。
味わってきた濃い経験がある。
ならば、僕らも追い続けよう。
喜びも痛みもすべて受け止めて、
それでも目指してゆきたい大きな夢を。
さぁ戦いの場へ、その先にある歓喜へ。
夢がある限り、僕らは強くなれる。

 
 
2008年のキリンカップの広告より。
そのうちブログで紹介しようと思っていましたが、、
おやおや、いつのまにか2年経っていました。
この時、パラグアイと対戦。0-0の引き分けでした。

 

岡田監督、選手の皆さん、
今夜はパラグ愛な人たちを、パラグ哀にしてやって
ください。
 
そこで、岡ちゃんにひと言
 

★コピーライターが思わず ! となったコピー。-okada02

見せてほしいだす、インビクタス

南アの元大統領、反アパルトヘイトの闘士、そして不屈の人、
ネルソン・マンデラさんがサッカーW杯の開会式に出席するらしい。
実現すると、やはり1995年に南アで開かれたラグビーW杯の
ときのようにものすごい盛り上がりを見せるんだろうなぁ。
 
新しい南アフリカのために、ラグビーW杯を
通して人種同士の団結と和解をめざした話は、
映画「インビクタス」で描かれた。
 
映画の中でマンデラが投獄生活(27年!)中に
心の支えとした詩が出てくる。
それが、インビクタス(Invictus)。
不屈、敗れざる魂という意味。
その中で印象的な一節がこれ。
 
 
★今回のビックリマークコピーコトバ。
 
 
I am the master of my fate.
I am the captain of my soul.

 
私は我が運命の支配者、我が魂の指揮官だ。 
  
$★コピーライターが思わず ! となったコピー。-invictus01

あまりにカッコいい言葉。
ヘタレのわたくしとしては
理解はできるが、そこまでの境地に
いくまでの覚悟がまだ足りませんという
状態ではある。
でも、言ったそばから酔いそうな
胸をうつ美しい言葉だ。
 
この2年くらい、評価も期待も
下がりっぱなしのサッカー日本代表。
それでも、見放さないのは
1997年や2002年に彼らのインビクタスに
震えたうちのひとりだから。
 
2002年W杯/ベルギー戦での鈴木選手の電光石火

 
2002年W杯/ベルギー戦での稲本選手の乾坤一擲

 
そして、1997年アジア最終予選・ジョホールバル/岡野選手・中田選手の不暁不屈

 
1勝1敗1分けとか、小賢しい星勘定など考えずに、
サッカーを楽しみたいなどと寝ぼけたことを言わずに
勇者のように闘ってほしいと切に願う。
 
「インビクタス」の決勝シーン
南アチームのキャプテンが仲間に
この指とーまれって言っておるのではなく、
This is it ! This is our destiny !と
鼓舞している。
$★コピーライターが思わず ! となったコピー。-invictus02

日本代表、負けていても、ふてくされた
顔をせずに、こんな面構えでがんばってください。